見えない存在との対話

【見えない存在との対話】死が悲しいのはなぜ?〜愛せなくなる悲しみ

こんにちは、アートな人生クリエイター・荒巻まりのです

これは、少し前のおはなしなのですが。

 

飼っていた金魚のキンちゃんが死んでしまった時のことです。
もう10cmくらいになってて、上の子が保育園でよく水槽を見ていたから買って、2年くらい生きたのかな。
レモンコメットという、黄色い金魚でした。

朝、ちょっと浮き気味かな?と思ったら、もうその日の午後には横倒しで浮いて、もう動かなくなっていました。

 

それが、自分でも驚くほど悲しくて。

朝晩の餌と2-3週間に1回水を変えるくらいで、ぜーんぜんちゃんとお世話してなかったのに、悲しくて。

 

どうして?

と思って。

 

いや、死ぬことが悲しいなんて当たり前だよ!
って言われそうですけど。

わたしね、別離の悲しみとか、志が未完遂で終わる悲しみはもちろんとてもあるんだけど、死それ自体を悲しいものつらいものだとは思っていないんです。

あ、それに伴う身体的苦痛はいやですよ?
痛いのつらいのは自分でも他人でもいやです。

 

それなのに、しかも溺愛してたわけでもないのに、なんで悲しいんだろう。

それで、おじいちゃん龍神のアルシュに話してみました。

悲しいよーって。
画面越しに見ていた芸能人の死よりも、ずっと悲しいのはなぜ?
自分の世界に関わりがあるから悲しいの?
2年間ほぼ朝晩餌あげて声かけて、成長を見てたから?

▶︎死が悲しいのはなぜ?〜愛せなくなる悲しみ
▶︎死が悲しいのはなぜ?〜離れると思うと抵抗が起こる

 

▶︎愛せなくなる悲しみ

 

おぬしは、もうお世話できなく(愛せなく)なるのが悲しいんじゃよ。

 

えー!ウソーお世話めんどくさかったよー!

 

お世話するのは、与えることだと思ってるじゃろ?
じゃから面倒に思うんじゃろ?
見返りとして、相手から笑顔とか成長とか愛しさとかを受け取ってると思ってるじゃろ?

違うんじゃよ。

お世話すること自体が喜びなんじゃ。
お世話することは与えることじゃが、同時に受け取ってもいるんじゃよ。

 

つまり…わたしが今まで対だと思ってたものは、それぞれで完結してるってこと?

 

そうじゃそうじゃ。

お世話する(与える)←→成長が見られる(受け取る)

じゃのうて、

お世話する(与えるであり、受け取る)
成長を見る(与えるであり、受け取る)

なんじゃ。
お金とかもそうじゃな。

お金を支払う(与える)←→物をもらう(受け取る)

じゃのうて、

お金を支払う(与えるであり、受け取る)
物をもらう(与えるであり、受け取る)

なんじゃよ♡

 

見返りを求めないって、そういうことか…!
はじめて理解した…!

いやー
見返り求めるなって言われてもさ、ちょっとは期待しちゃうじゃん。

これだけやったんだから、なんかあるだろ。
これだけ払ったんだから、なんかあるだろ。

みたいな…

あー、自分で書いてて痛い!
すごい自覚ある!!笑

でも、それぞれで完結してると思ったら、その行為自体から受け取ろうとするから、別で見返り求めなくても大丈夫なんだね。

受け取る時も、同時に与えてもいるから、罪悪感なく受け取っていいんだ。

 

そうじゃよ。
時間の話でも言ったろう。
今、今、今。完結しとるんじゃよ。

 

▶︎離れると思うと抵抗が起きる

 

そしての、関われば関わるほど愛しくなるから別れがつらいということもあるぞ。

相手のことを知ると言うことは、相手の情報が自分に入ってくるということじゃ。
はじめ嫌いでも、長く一緒にいたり、そやつのバックグラウンドや信念を知ることで、だんだん愛着が湧いてくることってあるじゃろ。

わしらは元々ひとつなんじゃ。
情報を入れると混じり合ってくるんじゃな。
混じれば混じるほど、離れると思った時に抵抗が大きくなるのは当然じゃろう。

じゃがな、覚えていて欲しいのは、物理的に離れたからと言って、本当は離れるわけではないということなんじゃよ。

 

どゆこと?

 

おぬしは今までの人生でいろいろなやつと深く関わっては、また、環境やステージや考え方の違いによって物理的に離れてきたじゃろう。
キンちゃんのように、死で離れたこともあるかもしれん。

じゃがのう、今物理的に会わなくなっても、繋がってはいるんじゃよ。
好きなのは変わらないけど、いまは会わない距離がちょうどいい、というやつはおらんかね?

 

いるいる!
好きだから会わなきゃ!って無理して会ってもなんか違うんだよね。
たまにメールして満足したり、メールもしなくてもその人がどこかで頑張ってるってだけで満足したり。笑

 

繋がっておるからなんじゃよ。
物理的な距離はその時々の事象で変わる。
それは本当の繋がりとは関係がない。

物理的な距離が離れることに抵抗するのは、ある意味で「離れたら繋がりがなくなる」ということを肯定しているということはわかるかね?

 

じゃからのう、混じり合っていればいるほど別れの時に抵抗は起こるが、「離れても離れないから大丈夫」として、相手との繋がりを感じ続ければ、手放しやすいと思わんかね?

キンちゃんは源に戻って存在しつづけておるし、おぬしもそれを感じるじゃろう。

悲しんで良いんじゃよ。
感情の震えは魂にとって素晴らしい経験じゃ。
じゃが、別れが不安でしがみつくのは、自ら繋がりをなくす世界に身を置いていると気づいた方がよいのう。

 

アルシュ、ありがとう。
確かに悲しいけど、キンちゃんの存在がなくなってないのは感じるよ。
これからも変わらず、たまにだけど思い出した時には愛をおくることにするね。

アーティスト、俳優
荒巻まりの
東京芸術大学デザイン科を卒業したのち、新国立劇場演劇研修所で学ぶ。二児の母。 「ありたい自分に立ち戻れる絵」をテーマに、現実と見えない世界を共存させるアーティスト。 美術予備校講師、新人向け俳優レッスン、プレゼン講師の父とコラボで存在感アップ研修の開発をしたりと、講師業とも切り離せない人生である。 好きなものは、青、金色、幾何学模様。 アルシュという龍神のお爺さん、エトワールという武装した女性のハイヤーセルフと時々お話しする。
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